お盆の期間、九州地方と中国地方を中心に大雨による被害が生じました。お亡くなりになった方や行方不明となっている方もあります。心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
日中の暑さは残っていますが、お盆が過ぎると夏が終わったような気がします。今夏の思い出と言えば、ますます深刻化するコロナ禍、大雨、東京オリンピック、強風、長雨、日本ハム・中田翔暴力事件。パッとしない夏でしたが、皆様はいかがお過ごしになったのでしょうか。残暑の折、どうぞご自愛ください。
【公善社からのお知らせ】
浸水被害により長期メンテナンス中のセレモール出雲・東館につきましては、営業再開まで今しばらくお待ちいただきますので、よろしくお願いいたします。
【遅ればせながら 追悼・立花隆氏】
だいぶ前の話で恐縮しますが、本年4月30日、「知の巨人」と称せられた作家・立花隆氏がお亡くなりになりました。5月以降、書店では立花隆コーナーが設けられ、多くの作品が並べられました。その中で氏の著作にしては「薄さ」と「字の大きさ」が際立つ『死はこわくない』(文春文庫/2018年)を追悼の意を込めて購入し、三ケ月の積読を経て、ようやく目を通すことができました。
本書の論点は多岐にわたりますが、立花氏の「死」に対する知見の基本的枠組みがわかりやすくまとめられています。まず氏は、臨死体験を通じて死後の世界を根拠づけようとすることの誤りを指摘し、ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ」を引用しながら、死後の世界については沈黙しなければならないと主張します。そして、死後の世界が語り得ないものである限り、どのような死生観の存立も可能であり、様々な死生観がある中、それぞれの優劣をつけることはできないということを示唆しています。
死後の世界の問題も含めて死と生に対する考え方を「死生観」と言うのなら、葬儀社の従業員は様々な死生観に接する機会に恵まれています。単純に宗教者と接する機会が多く、直接的にあるいは間接的に各宗教宗派の死生観に触れることになるからです。しかし、葬儀社で働く人間が他人に語るほどの豊かな死生観を持っているのかと問われれば、そういうわけではありません。ただ、「死生観に優劣はない」ということだけは十分にわきまえているつもりです。
その意味で、多くの葬儀社従業員は、無意識に立花氏の「死後の世界については沈黙しなければならない」という教えを実践していると言えるのかもしれません。葬儀の現場で接する様々な死生観を柔軟に受け止め宗教者と遺族に同調する姿勢が、私たちには求められています。仮に、特定の死生観を遺族に諭すような従業員がいたなら、大問題となるでしょうし、特定の死生観に強いこだわりを持っているなら、葬儀という仕事に辛さを感じることになるかもしれません。
もっとも、ご遺族から「死とは何か?」という問いかけをいただいたことは一度もありませんし、逆に確たる死生観を私たちにご披露くださったご遺族もいらっしゃいません。おそらく、私たちも含めて殆どの人は死を直視することを避けているはずです。人々が避けて通ろうとする問題に向き合い、真相を明らかにしようという姿勢に、立花隆氏の真骨頂はありました。新左翼、田中角栄、日本共産党、脳死、臨死体験等々、これらは立花氏だからこそ直視できたテーマだったのだと思います。
遅くなりましたが、立花隆氏のご冥福をお祈りいたします。スタジオジブリ作品『耳をすませば』(1995年)の声優としての出演も印象に残っています。
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