【トピックス】
6月後半から、島根県内の新型コロナウイルス感染者数が急増しています。6月28日には、一日の感染者数としては過去最多となる305人の感染が確認され、うち半数の155人は出雲市在住者だったようです。
油断が招いたリバウンド現象ではないでしょうか。重症化のリスクは小さくなったものの、感染によって死に至る可能性は残っています。基本に立ち返り、今までやってきた感染防止対策を徹底したいと思います。7月1日記
【公善社情報】
7月1日より、出雲斎場(出雲市平成町)の修繕工事に伴う利用制限が解除され、火葬の予約枠が以前の状態に戻りました。なお、感染防止のため、入場者数の制限(15名まで)、飲酒の制限等は継続されます。また、当社葬祭会館における感染防止対策も継続中ですので、ご協力のほど宜しくお願いいたします。
【エンターテインメントとしての葬儀】
5月26日のJIJI.COMに島田裕巳氏の「葬儀の簡略化が進む理由◆消えゆく死のドラマ」と題した文章が掲載されました。書下ろしだと思われます。ちなみに、情報を頂いたのは「考える葬儀屋さん」のツイートです。
本文において島田氏は、明治期における歌舞伎役者の葬儀、石原裕次郎の葬儀(昭和62年)、美空ひばりの葬儀(平成元年)を紹介し、かつて葬儀はエンターテインメントの要素を多分に含んでいたことを指摘しています。たしかに、派手な演出や、弔問客として訪れる有名人の顔ぶれには心躍るものがあります。それらをマスコミが大々的に報道し、国民レベルで彼らの葬儀を楽しんでいたと言えなくもありません。
また、一般大衆と同様に、故人を送り出す立場の人々も葬儀を楽しんでいたと言えるのかもしれません。お布施、戒名、祭壇、演出、展示物、弔辞、来賓等々・・・葬儀のプロデュースを楽しむという側面があったのではないでしょうか。かつての「社葬」にも、同様の側面があったのかもしれません。
さらに島田氏は、こうした側面は有名人の葬儀や社葬だけではなく、一般家庭の葬儀においてもあったことを指摘しています。まさに慧眼であると思います。島田氏は「地域の人間関係が緊密であった時代には、葬儀は地域の一大イベントで、参列者の好奇心を大いにそそる出来事でもあった。どういった葬儀になるのか、誰が参列するのか」と述べています。その通りだと思います。一般家庭の葬儀においても、葬儀を出す側、すなわち喪主をはじめとした遺族は、少なからず、人々の注目を浴びることを楽しみ、参列する人々の心を動かすような演出を葬儀業者と一緒になって考えていたのではないでしょうか。
そして今日、葬儀はエンターテインメントとしての性格を失いつつあります。島田氏は「(葬儀が)エンターテインメントとしての性格があったのは、一人の人間の死が、少なくともその周囲の集団にとって重要な出来事だったからにほかならない」と述べています。それに即して言うなら、昭和、平成を経て、血縁と地縁の希薄化、職場の相対的地位低下が進んだ結果、葬儀は多くの人にとって重要な出来事ではなくなったと言えるでしょう。
その結果、「どういった葬儀になるのか、誰が参列するのか」に興味を抱く人はいなくなり、参列者の数はどんどん減ってゆきます。参列者(=見てくれる人)が減少すれば、喪主をはじめとした葬儀を出す側も、様々な意味で張り合いを失うことになります。ここに「じゃあ、家族葬、直葬でいいか」というストーリーが成立するのです。
今回の島田氏の「葬儀がエンターテインメントでとしての性格を失った」という指摘は示唆に富むものであると思います。今日、こうした観点を提供してくれる存在は島田裕巳氏以外にいないような気もします。また氏は本文において、自然保護の観点から土葬の可能性についても言及しています。今後の発言に注目したいと思います。
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