【トピックス】
9月3日、菅首相が自民党総裁選に出馬しないことを表明し、内閣総理大臣を辞することとなりました。菅氏はコロナ禍の只中に内閣総理大臣に就任し、約1年間、国のかじ取りを担ってきました。発信力、説明能力、演説力等において力不足であったのかもしれませんが、東京オリンピック開催という難題を抱えながら、コロナ対策をはじめとする諸課題に誠実に取り組み、少なからぬ実績を残したのではないかと思います。
この「国難」とも言える状況において誰が首相になろうとも、菅氏を凌駕するような実績を残せたとは思えません。様々な評価があるでしょうが、各方面から強い制約を受けながらも、持ち前の調整力を発揮して重責を果たしたことを素直に労いたいと思います。任期満了までコロナ対策に専念していただだき、有終の美を飾っていただきたいと思います。
【「葬儀告別式は贅沢品?」の時代に】
8月31日にアップされた「考える葬儀屋さんのブログ」において「現在都内では、火葬のみが4割・通夜をしない一日葬が4割・通夜葬儀を2日間行うのが2割というのが現状です。葬儀告別式を行うことは、今や贅沢なのです。」という記載がありました。念のために言っておきますが、ブログ主は「葬儀社の病院安置室業務はもうかるのか?」というテーマの考察において、葬儀単価の下落傾向を示すために上のような表現をしただけであり、葬儀告別式が贅沢であると主張しているわけではありません。
葬儀という儀礼は、故人の魂の永遠と死後の世界における安寧を願って行なわれているはずです。そして告別式とは、儀礼に合体した時空間で、故人のこの世における不在を確認し、追悼する場です。かつては「行なうべき」と思われてきたことではありますが、どうやら今日においては「しなくてもいいのでは?」という考え方に変わり、「葬儀告別式は贅沢」との見解も横行し始めているようです。
しかしながら、そうした傾向の行き着く先に明るい社会を想像することはできないように思うのですが、いかがでしょうか? 人と人が分断された社会、殺伐とした冷たい社会をイメージしてしまいます。葬儀告別式は、例えば故人に対する「愛」「感謝」「労い」等のポジティブな感情が掘り起こされ、もしかしたら自身の生き方を見直す機縁となるかもしれない場です。そこから生み出される作用は、社会にとって有益なものだと思います。それにもかかわらず、「物理的に遺体の処理をすれば十分。葬儀告別式は贅沢!」が当たり前となった社会で、果たして人々は幸せを感じ取ることができるのでしょうか。
生意気を言わせていただくなら、私たちは葬儀告別式の価値を守ることを通じて、社会をより良いものにしてゆきたいと思っています。時代の流れに逆らうことと知りつつ、この考えに共感してくださる同業者さんは少なくないはずです(「考える葬儀屋さん」もその一人だと思っています)。格好良く言えば「葬儀現場から未来社会へのフィードバック」。残念ながら、まだまだ具体像は描けていませんが・・・。
私たち公善社が以前から変わることなく心がけていることは、今回のテーマに引き付けて言えば「葬儀告別式をやったよかった」「決して贅沢品ではなかった」と思っていただけるような仕事をすることです。その結果、お客様の心に小さな幸福の種を蒔くことができれば、これ以上の喜びはありません。もちろん、経済的事情によりやむを得ず葬儀告別式を執り行なうことができない方々への配慮も忘れてはなりません。
以上、葬儀屋の営業トークに受け取られるかもしれませんが、それ以外のものを汲み取っていただければ幸いです。
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